2016 教皇ヨハネ・パウロ2世「平和アピール1981」記念行事、鳥取教会で開催!

 教皇の広島平和公園訪問、そこでの平和アピール宣言は雪の舞う2月であったが、鳥取の深雪を考えて記念行事は4月に行いました。鳥取教会の信者さん、そして岡山方面から訪問した10人と一緒に、記念ミサ、林神父さん講話、分かち合いを持ちました。

 

林神父のミサ説教と、ミサ後の講話「現代と福音、そしていつくしみの特別聖年」は、聞き手の魂をグイグイ引っ張り出し、主イエスの福音の前で裸にされる迫力で迫ってきました。

 

開口一番、震災真っ只中、「熊本へ行きたい!」と引き裂かれる想いで、鳥取へ。高齢(81才)でもあり不安でもあるが、しかし逆立ち(18才)したならば行って来れたかな、と笑いを呼び、一人の人間が引き裂かれる想い、引き裂かれる心、これがもし消えていたら「健康診断せよ」、との鋭い言葉。平和の人ほど、心は引き裂かれているのだ。

 

ガス会社勤務の父親が熊本救援へ出張で不在。会えず寂しがっていた幼稚園のある子が、支援物資の小さな荷物を送る手伝いをしたことで、「ボクも熊本へ行ったよ」と元気を取り戻す。愛の流れに入ったこと、聖霊の風が吹いているその風に入ることが大事。

 

 

神父さんが具体的に体験された、いのちの尊厳 を守る極めて日常的な出来事を次々と繰り出し、そのなかに働く聖霊の風に心を向けさせ、敏感であるよう助言された。ややもすると進展の見えない社会や周囲 の現状で疲労感に潰されそうになる私たちの魂に、あきらめない不屈さと福音の勇気と夢とを再び呼び起こしてくれる激しくも、新鮮な話であった。

 

今年4月に下関労働者教育センターは改修されたとのこと、その時に同志の方々から贈られた言葉、「行け、世界中に火を放て!」の言葉そのものが投げ入れられた講話であった。

 

 隔てを生む壁を越えたナザレのイエスに倣って、壁を越えよう。根気よく向き合う、向き合えばいのち流れる。

 

誰と向き合う?苦悩の中で叫ぶ、石の叫びに。少数者、棄民、被抑圧者、被差別者、弱い立場、端っこに追われている人々に。

 

自分は昭和一ケタ世代、国民学校1年から6年迄フルコ-スを食べた。整列中に教員からビンタを貰ったとき、その教員は私の眼を見ずに後ろに居た校長の方へ眼を向けた。子ども心に見抜いた虚しい権威の正体。不幸な少年時代、きな臭さが勘で分かる。騙されないぞ。

 

今はやばい、やば過ぎる!メディアが権力側に立って、私たちには分からなくされている。鹿児島県の震度は報道されない、何故? 

 

教皇フランシスコの言葉、「世界の現 状、それは格差と排除。原因は、黄金の牛を礼拝する人類に成っていること」。林神父の語録から、「若者の反乱の無い所に、死の匂いがし、年寄りの反乱の無 い所に、諦めの砂漠が拡がる。女性の反乱の無い所に、いのち枯れる。反乱とは発言である」。

 

いのちの尊厳は、観念ではない。具体的に一歩踏み出すこと。「行きましょう、主の平和のうちに・・・」、何処に行くの? 信徒の政治活動は社会に対する愛である(ベネディクト16世)。

 

 神父さんの話を聴き、資料に目を通して思うことは、1020年後、初めて「しまった!」と気づく者に私は慣らされていないか、という自戒である。孫に、「あの時、爺ちゃん何してた?」

 

と聞かれたら・・・。

 

目を覚ませ! 魂の鋭敏さを磨け! 遠雷が聞こえないのか!  (文責 平和推進チーム 鈴木實)